東沢の風土



地区の成り立ち(歴史)
歴史1 縄文時代
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 現在の東沢小学校の運動場をつくる際に打製石器、凹
み石が出土し、縄文時代から東沢地区に人が住んでいた
ことが伺える。
 当時の暮らしは稲を栽培せず、狩猟、漁撈、採集を基
本としたので、食料になる木の実やキノコ、それを食べ
る動物が集まる丘陵地帯が住みやすかった言われている

 そう考えると東沢は縄文時代から住みやすい地域だっ
たようだ。
 また、東沢という地名の発祥は、東沢小学校が出来る
ときまでさかのぼる。 明治42年3月31日、大舟尋常小
学校と上奥田尋常小学校が併合し、東沢尋常小学校と改
称。
 当時は現在の東沢地区と隣の玉庭地区をあわせて玉庭
村と呼んでおり、校名に使われた東沢は玉庭本村に対し
て東の沢というのが語源である。

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歴史 2 稲作

田と東沢

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 東沢は、里山に位置するものの水の調達が難しい地形で、安定し
た稲作を行えるようになるまでには多くの努力を必要とした。
 水田の標高は220~360m、面積は22.65平方キロ。東沢地区は南
部の山地を水源とし、北に流れる黒川、逆沢川沿いに開けた水田を
耕作する水稲単作地帯である。
 境界が分水嶺であることから、江戸時代から常習の干ばつ地帯で
あり租税が免除される「塊田仕付荒引」の地区だったこともあった

  当時の「元置賜村段別」によれば東沢地区の上奥田、大舟に合
わせて116カ所のため池が記録されている。
 水不足に悩む奥田村肝煎横山平左衛門が飯豊山穴堰を上杉藩に進
言した記録も残されており、実際に米沢藩は着工から20年の歳月を
要する穴堰掘削の難工事を1818年に完成させている。
  江戸時代の土木技術では、飯豊山から水を東沢に引くことはで
きなかったが、昭和56年に白川ダムが完成し、犬川黒川幹線用水路
の導水トンネルを通って幾星霜の悲願がついに実現した。

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民俗・文化
民俗・文化 1  草木供養塔
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 草木(供養)塔の起源は、米沢藩上杉鷹山公治世の安永9年(
1778)に遡る。この年4月に米沢城下中心部で大火があり焼失が千戸
に及び、復興のために大量の木材が伐りだされたことから、供養す
る塔を建てたのが始まりとされる。
 草木への感謝と供養の思想は大乗仏教の教えである。
 全国でも置賜地方にのみ見られる独特の信仰であり、昭和以前に
建立された50基の内、36基が旧南置賜郡三沢村、中津川村、玉庭村
にある。
 東沢には江戸時代以降に建立された3基の草木(供養)塔があり、
稲場山の「草木供養塔」は元治元年(1864)に建てられたものであ
る。
 新蔵峠の「草木供養塔」は東沢では最も古い文化13年(1816)に
建てられたものであり、川西町でも3番目に古い。この草木供養塔は
もともと地蔵前(太田和夫氏宅付近)の旧道路傍にあったが、水田
の区画整理事業が行われた昭和44年に散逸を防ぐため、地元の方々
によって新蔵峠に移転された。飯坂の「草木塔」は明治9年(1876)
に建てられたものである。

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民俗・文化 2  ワラニョウ
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 ワラニョウは高さ二メートル以上、高いもので四メートル
以上にもなる稲や藁が積み上げられ、お椀を伏せたような形
をしており、ニョウとは稲か藁を積んだものを意味する。
 手作業で農業を営んでいた時代、脱穀の済んでいない稲の
穂を内側に向け円状に積み上げ、蓋をして越冬するためのも
の。
 高くなるほど積み上げるには技術と体力が必要で、驚くこ
とに人によって十キログラム以上ある束を頭上高く放り投げ
ていたというのである。
 昭和四十年代から東沢でも農業の機械化が進み、昔ながら
の農業をする人は少なくなったと言われている。初めて田植
え機を導入した農家を、みな半信半疑で見ていたようだが、
今では「わらにょう」を積んでいるのは東沢でも一軒だけで
ある。
 その近辺を通ると、徐々に「ワラニョウ」が積上げられ
ていく様子や作業風景を見ることできる。

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民俗・文化 3  キリハライ
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 宝船、扇子、鶴、亀、松などの吉祥紋や鏡餅、稲刈りの風
景など農家の一年の暮らしが描かれた切り絵である。
  東北では南三陸などの地域に同じような切り絵を飾る文化
がある。
 切り紙、切り子等とも呼ばれるが、東沢では切り祓い(キ
リハライ)と言う。2015枚ほどの組み合わせがあり、枚数が
増えるほどに様々な絵柄をみることが出来る キリハライはお
正月を迎える準備の一つであり、新しい年が良い一年になっ
て欲しいという願をかけ、年の瀬に飾る。
  昨年飾ったキリハライの上に重ねて貼るので、年々厚くな
り飾れないくらい重たくなると、年末の古札焼納祭で燃やし
てもらうとのこと。
 昔は時季になると米沢から売りにきたそうですが、現在で
は直接、神社へお願いをする。

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民俗・文化4  東沢の郷土資料
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 東沢地区では歴史や文化を今に伝えるものとして、2冊の
資料(下記参照)が発行されている。
 「風土記 東沢」では、歴史・文化・生活など、「東沢の
昔の農作業と年中行事」では、農業全般の話や風習などが詳
細に記載されている。
 当時の暮らしや歴史を伝える貴重な資料だといえる。

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【参考文献】
・『風土記 東沢』東沢風土記編集委員会編1994
・『東沢の昔の農作業と年中行事』
 東沢昔の農作業と関連年中行事の資料編集委員会編2008

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民俗・文化5  御行屋
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 飯豊山は標高2105mで、山頂の飯豊山神社は会津柳津虚
空蔵尊の奥の院ともいわれ、江戸時代から昭和初期まで山岳
信仰が盛んであった。
 お山参りをするには行屋で精進潔斎の行をしてから登る。
 1~3週間家族と接触を絶ち、朝夕2回水垢離をとり、自分
で食事をつくり、寝泊りも行屋で過ごした。
 先達といわれる人の案内により1泊2日の行程で飯豊山神社
に参拝した。東沢には44の御行屋があったが、現存するのは
その内8棟のみである。

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民俗・文化6  米沢鯉の水揚げ
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 江戸時代、上杉鷹山の教えで民のタンパク源として広く鯉
の養殖が行われた。現在では、それが米沢鯉として置賜の特産品になっている。
 たくさん養殖されていた鯉も置賜では逆沢ため池1カ所とな
り、米沢の鯉屋さんにより降雪前の11月中旬40トン水揚げさ
れる。
 その様子は一つの風物詩として毎年テレビで報道される。

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民俗・文化7  ヤハハエロ
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 家内安全や豊作祈願などの意を込めて、正月に行われる行
事の一つ。
 正月に飾った門松や古い御札などを藁で覆い火をつける。
「貧乏持って行って、果報持って来い、ヤハハエロ」と叫び
ながら、無病息災を祈って身拭き紙と呼ばれる紙で頭や体を
拭き、その紙を燃やす。
 火の中で餅などを焼くこともある。東沢では現在でも行わ
れている行事の一つであり、ヤハハエロと呼ばれている。
 地域によってさいど焼き、ドンド焼きともいう。

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